特別対談

ものづくりを通じて仙台未来を考える

20周年を迎えた仙台市の「御用聞き型企業訪問事業」。
専門家が企業の困りごとをヒアリングし、課題解決のお手伝いをするという、
当時は画期的な支援事業でした。それゆえに、いろいろなハプニングもあったそう。
その創設期メンバーがこれまでを振り返り、そしてこれからを語ります。

CHAPTER 1今までにない、産学連携のカタチ「御用聞き型企業訪問」

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堀切川 一男 氏

PROFILE

東北大学名誉教授。工学博士。
青森県八戸市生まれ。
文部科学大臣賞(科学技術振興功績者表彰)、内閣府科学技術政策担当大臣賞(産学官連携功労者表彰)など数々の賞を受賞。

御用聞き型企業訪問事業(以下、御用聞き)、20周年おめでとうございます。実は私も事業団に入ったのが20年前でして、御用聞きの担当になったのは震災後からなんですね。なので、まずは、どのように御用聞きが始まったのか教えてください。
堀切川
仙台市役所経済局の中に産学連携推進課っていうのをつくりますっていう話が出たんですよね。ラウンドテーブルがあった年くらいの話だったんですけど、そのラウンドテーブルで、仙台市役所と宮城県庁それぞれが、東北大の先生を指名して地域の産業興しをやりましょう、と。それで地域連携フェローっていう名前ができて「やれ」っていわれたんで「はい」と。それで、「何やりますか? 具体的にどういう活動しましょうか」って仙台市役所に相談したら「それを考えるところからが仕事です」っていわれたんですよね。
そのときは、村上さんはもう事業団に所属されていましたか?
村上
そうですね。この御用聞きが始まる半年くらい前に事業団に採用いただいていました。
堀切川
最初はとにかく地元の企業を知らないので、地元の企業を回ってどういう応援されたいか、まずは企業巡りしましょうよっていう話だったんです。どうやって訪問する会社を決めればいいかも決まってない。で、頼まれもしないのに行く“御用聞き”みたいなものだよね、と。とりあえず腰を低く、低姿勢でいきましょうっていうことで回ったんですよ。
企業さんはウェルカムな感じでしたか?
堀切川
全然(笑)。
村上
そういえば、メッキの会社に行きましたね。
堀切川
社長さんに「俺は仙台市役所が嫌いだ」っていわれて、「来なくてもよかったじゃん」って(笑)。その社長さんいわく、「大きな工場で音がうるさいし、煙も出るから、街なかにいるな」といわれたと。それで当時、仙台市じゃない泉市の方に来たら今度は泉市が合併で勝手に仙台市になっちゃって。「仙台市に追い出されたのに、出てった先がまた仙台市になった」って。
そしてさらにもうひとつ、「俺は東北大学がもっと嫌いだ」っていわれてね。嫌いは嫌いでいいけど、何でなのか知りたかったから聞いたら、「昔技術で困ったときに、青葉山の工学部の先生に相談したら、居丈高でカチンときた。困ったときに助けないのが東北大と仙台市だ」っていわれたんです。これはもう退散するかないなと思ったんですけど、そうしたらその社長さん、「俺は山形大を見てきた。工学部にはベンチャービジネスラボラトリーがあって、とにかくすごいんだ。ああいうスタンスでないと、地域の会社と連携はできない。あそこの入口には滑らない靴とオリンピックのボブスレーのランナーが飾ってあった」っていわれたんで、「それやったの俺なんです。まだ飾ってあんだべね」って返したら「それなら先生は別だ」と(笑)。それで話を聞いてくれて「東北大と仙台市がこういうことやるんで、企業の人たちがどういう応援されたいかのニーズも知るために来たんだ」っていう話をしたら、「だったらここに行った方がいい」っていう会社を紹介してくれたんですよ。
当時の支援機関って、受動的というか「相談に来るなら来なよ」的な感じじゃないですか。なので、そういう意味ではこちらから能動的にお邪魔していくっていうのって、支援機関では何か画期的だったんじゃないかなと思います。
村上
そうでしょうね。
嶋田さんはどうでした?
嶋田
私は市役所の担当者としては2代目だったんですけれど、県南の会社を訪問したときに、さっき堀切川先生がおっしゃっていた「東北大はダメだ。いざとなったら教えてくれない。山形大学では…」っていうのをいわれました(笑)。
この御用聞きって、仙台市がやっている事業ですけれど、結構広域じゃないですか? その辺はどうなんですか?
嶋田
やっぱり最初は市役所の中でも、いろいろな議論があったと思います。あまり遠くに行きすぎると、「そこは仙台経済圏じゃないんじゃないか」とか。でも、そのうち仙台経済圏が徐々に広がってきた感じはありますね。
村上さんは、県域とか市域とか関係ないっていつもおっしゃっていますよね。
村上
関係ないですね。ビジネスですから。
御用聞きは、企業課題リニア型※じゃないですか。でも、それってそれまでの産学連携からいくと、かなり異端だったんじゃないですか?
堀切川
それまでって、大学と企業の連名で国の補助金取りに行って、当たったらそれで開発するのが普通の流れだったんで、それではダメだと。地域が連携して新しい産業をつくろうっていうので、今までやったことないスタイルでやろう、と。企業さんを訪問して歩いて、やりたいことや開発のニーズを聞いて、それを応援してものにしていくっていうスタイルにしたんですよ。元気な企業さんを見つけながら訪問するっていうときに、村上さんはみやぎ工業会の専務理事をずっとやっておられたので、宮城県のものづくり産業の社長の名前も顔もキャラクターも全部知ってるわけですよ。村上さんがいなかったら、できなかったです。
村上
僕は御用聞きが始まる少し前に堀切川先生の講演を聞きに行ったんですよ。そのキャラクターのすばらしさに驚きましたね。最初は規模の大きい東北電力の子会社のようなところから訪ねていったのですが、先生はご専門ではないところまで掘り下げていかれて。食べ物もデザインも範疇だとおっしゃるから、どんどん幅が広がっていったんですよね。
どんどん幅が広がっていく中で不安ってなかったですか?
嶋田
ありました。上に何て報告しよう…みたいな(笑)。私のときは、文房具の開発があって、その解決策の中に先生の専門分野の摩擦が関係するので、ちゃんと堀切川先生の名前が使えるんですよ。その後出てきたのが「仙台づけ丼」の話で、これはさすがに専門分野は全く関係ないな、と(笑)。ただ、産学連携学会で大分に行ってそこで琉球丼を食べてそこから着想を得られたものなので、斜め上ながらも関係なくはないか…(笑)、と。
堀切川
大学の教授としてではなくて、仙台市地域連携フェローという非常勤職員ですから、産業界のためになれば何をやってもいいっていう、立ち位置の自由度があったんですよね。
嶋田
だいぶ予測不能な活動でしたが、それが私は楽しかった。なので全く止めようとは考えなかったし、今度はどこに行くんだろうってワクワクしていました。

CHAPTER 2御用聞き型企業訪問事業とうまくリンクした「寺子屋せんだい」

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村上 雄一 氏

PROFILE

一般社団法人みやぎ工業会の専務理事を務めた後、文部科学省直轄の国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)にて、地域結集型共同研究事業にかかわる。2003年から2022年まで、仙台市産業振興事業団にてBDDとして御用聞き型企業訪問に携わる。

御用聞きがスタートして少し後から「寺子屋せんだい」が始まったわけですが、支援機関のセミナーなのに夜に開催して、その後に飲むというのも珍しかったですよね。
堀切川
山形大にいたときに、産学連携の会をつくっていたんですけど、研究会だけやったときって、地元企業の人は何ひとつ発言しないで黙っているんですよね。「これはまずい」っていうので、1泊2日で温泉行って、1部屋に5、6人ぶち込むんですね。そうすると打ち解けて飲みながら参加者同士が「何やってんのや」「今度うちの工場見に来い」っていう話になって。多少お酒が入らないと東北人は口下手だという体験があったんです。寺子屋の後に軽く缶ビールなんか飲んでると「実はこういうことで困ってるんだ」ってこっそり話しに来る人が出てくるんです。寺子屋は、次の御用聞きのきっかけにもなるし、御用聞きに出た企業さんがその後どうなってるかっていうのを教えてくれる場でもあるので、うまくタイアップしてましたね。それに寺子屋は、話し手の先生が「この人はキャラクター的にも御用聞きに向いてるな」っていう下調べの場所としてもよかったんですよね。その後フェローの先生方が増えていったのは、寺子屋をうまく活用できたからですね。
御用聞きは村上さんのようなコーディネーターがいらっしゃって、初めての企業さんとかにもどんどん飛び込んでいくから成功した。事業団の職員だけではもう絶対無理で、産業とか企業のサプライチェーンがわからないと、話に入っていけないじゃないですか。やっぱり村上さんとかコーディネーターの方がいらっしゃらないと成立しないですよね。
嶋田
私が担当になった段階で「御用聞きの人を増やせ」という命を受けていたんです。それで1年かけて、村上さんに相談したり堀切川先生にご相談したりしながら人選をしたんですが、そのときに感じたのが、コーディネーター人材の少なさでした。それで、コーディネーターの人選からスタートした記憶がありますね。
村上
それで岩渕(喜悦)さんに声をかけたんだよね。
嶋田
岩渕さんのおすすめの先生を伺ったら、齋藤(文良)先生の名前があがって。その時すでに齋藤先生は多元研の所長だったので「先生の部下の方を推薦してください」とお願いしたら「いやいや、私がやるよ」とおっしゃってくださって。すごく驚いたのを覚えています。

CHAPTER 3広域連携のきっかけとなった、「東日本大震災」

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嶋田 浩之 氏

PROFILE

東北大学大学院修了後、一般企業で研究職に就く。2005年仙台市役所入庁。2007年より産学連携推進課で御用聞き型企業訪問事業に携わる。2023年現在、まちのデジタル推進課にて都市のデジタル化に携わっている。

御用聞きの歴史の中でひとつのポイントになるのが、東日本大震災です。そのときの様子を教えてください。
堀切川
実働は震災の年の7月からだったんですが、それまでの間、寺子屋を拡大版でやりました。復旧復興のタイミングで企業のニーズはどんどん変わってくはずなので、そういう人たちに合わせたもの、役に立つ話をしてもらおう、と。少しでも出費を抑えるための方法とか、緊急雇用のやり方とか、情報交換の場にして、勉強ネタ会ではないようにしよう、そのとき政令指定都市からも仙台市に人がたくさん来ていたのもあって、産業復興のために広域連携しよう、と。
事業団は震災前まで、県域を越えた活動はほとんどしていなかったけれど、震災をきっかけに西日本だけじゃなく、今や北海道にまでそのつながりが広がっていって。県域内だけじゃもう全然経済が広がっていかないし、もっと海外も含めて広域的に活動していかないといけないなと思いますね。
村上
この社長さんとこの社長さん、一人一人話を聞いて、そこからヒントを見つけて、そこに都市間連携で出会った仲間たちからのいろいろな情報をプラスしていくことが必要でしょうね。
嶋田
私は今、「まちのデジタル推進課」にいるのですが、行政で持っているいろいろな統計データで世に出てないものがたくさんあるんですよね。使える人がいるのにまだ出てないデータはできるだけ表に出して、それを民間の企業の方が、好きなようにできるだけ自由に使えるようにしていて、新しいサービスを作ることに利用していただけたらなと思います。

CHAPTER 4これからの企業の課題にどう立ち向かうか

画像:
関 憲二郎 氏

PROFILE

2003年より仙台市産業振興事業団職員。2012年より御用聞き型企業訪問事業に携わり、日本全国の支援機関との広域連携を推進する。2023年現在、仙台市中小企業活性化センターの館長および、仙台市産業振興事業団総務部の主幹を兼任。

最近では、人材の確保も企業さんの大きな課題になっています。それについてはどう考えますか?
堀切川
震災の前からいってきたのは、「魅力ある雇用創出」。魅力ある企業をつくっていけば、人はそこで働きたいと思うものです。御用聞きでも事業団でも、企業に足を運んで、魅力ある商品やサービスをつくって魅力ある企業にしていくことが必要でしょうね。
我々支援機関としては「この会社すごいよ」とかPRのお手伝いをしていかないといけないですよね。そして企業にも、もっと自分たちのプレゼン力をあげてもらうトレーニングも必要なのかなと思いますが、どうですか?
嶋田
東北人の気質のいいところでもありますけれど、なかなか自分のことを上手にアピールできないかもしれませんね。
堀切川
でも、あの震災の後に相当苦しいところから生き延びてきた会社がいっぱいあるじゃないですか。それで結構企業の人たちも自信持ったんじゃないかなっていう気がするんですね。私はあの震災体験を通じて根性が座って、いい意味でいい経営者になっていく人が増えてきた気がします。宿泊施設の人手不足を解消するための商品を企画したんですが、それを「やりましょう!」っていったのが30代の社員で。「社長に確認しなくていいの?」って聞いたら「自分たちがやりたいっていえば通ります。説得できます」っていう。そういう会社がここにあるっていうのがうれしいですよ。
私もある会合でお話した経営者の方が「自分の夢は社長をたくさんつくることだ」と。社員を増やすのではなくて、事業を立ち上げたらその責任者を決めて会社にしてしまう。小回りの利く会社をいくつもつくるんだ」っておっしゃっていて。ニーズをとらえて素早く事業化できる人が増えていけばいいな、と思いましたね。さて、今回は、御用聞き型企業訪問事業20周年の創設期メンバーでの対談だったわけですが、最後に堀切川先生、一言お願いします。
堀切川
仙台市で生まれたこの活動スタイルは、岩手県を除く東北に広がっています。あちこちで波及効果が出ているので、仙台市がより先を走って、その結果として全国の人たちが学んで、それぞれの地域をよくしていく波及効果が生まれてくることを期待したいと思ってます。そうなると当然ですが、広域連携が主流になっていく。広域連携で先頭を走っているのは仙台市なので、そのときはぜひ、仙台市の皆さまは心優しく「ほかの地域にも教えてやるぞ」という気持ちで臨んでもらえればありがたいな、と思っています。そして、仙台市も自然に人口が減ってくるわけですが、少なくとも自然の人口減の傾きよりは上をいっているような街になってもらいたいと思っています。

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